私がオンスクリーンプロダクトデザイナーになるまで
これは私のために書いた回顧録です。おそらく誰の役にも立たないし、こんな究極の自分語りを公開する大義名分すらない気がしています。
しかし振り返ると、私が今日ここにオンスクリーンプロダクトデザイナーとしているのは、多くの人との出会いを通してその生き様に触れた、連続した偶発性のおかげであることに改めて気がつきました。
だから、開かれたウェブにこれを書くことは、誰かの偶然性にもしかしたら影響するかもしれない、そんな気持ちがふと生まれ、公開することにしました。
はっきり言って拡散されることを望んでもないし、私以外にはどうでもよくて、私には大事な話なので、誰かに預けたくないからここに書いています。何かに縛られて書きたくもないので、出てくる個人や会社は名前を伏せます。でも学校名は続く誰かのためになるかもしれないので名前をある程度そのまま書くことにしました。
ここに書いてあることを公共性のある場で私に聞いても、これ以上は何も喋らないし、もしかしたらこれ以下しか喋らないかもしれません。その時は深堀りせず察してもらえると助かります。
私がオンスクリーンプロダクト開発とはじめて真正面から向き合ったのは高校生のときだ。当時生まれ育った埼玉県を出て、2014年、くにたちにある高校に通いはじめた私は、最初のワクワクから徐々に自分の本当のレベルを思い知り、学業から段々と遠ざかるようになってしまっていた。
学業1つの世界で生きてきた人が学業から遠ざかるとどうなるか。学校にはなんだか居場所がない気持ちになってくる。交友関係や先生とは極めて良好な関係なのに、私がここにいていいのか、という根本的なところで疑問を持ってしまう。
このあたりから、自己防衛のために1つの場所や人に依存しないように気をつけ始めた気がする。そんな私にとって、もう1つの場所になったのはGoogle+という、今はもう幻のSNSであった。
当時、10代特有の謎の行動力と焦燥感のあった私は、あろうことかGoogle+でG社の社員のSさんにG社に興味があることをメンションしていた。稚拙な高校生に、Sさんは大変優しく返答してくださり、夏休みにG社にランチがてらお話を聞ける機会をくださった。思えばこれが私の1つ目の転換点だったと思う。
Sさんがそのランチに連れてきてくださったのがKさんであった。
中学の頃からなんとなくPHPやHTMLやCSSを触ってきた私の当時のトレンドは、他と違ってカラフルで誰もやったことのない表層での表現の追求というものがデザインだと思っていた。ちょうどMaterial Designのrippleの表現が世の中に出てきたあたりで、あらゆる箇所でああいうものを使うことが良いと思っていた。
そんな当時の私にとってKさんは、「デザイン」という言葉を広げてくれた人であった。話したその時こそわからない言葉が本当に多くておそらく伝えてくださったことの半分も理解できたか今振り返ると怪しいが、場面に適したデザインであったり、情報に対して少なくともそういう世界があると、時間をかけてじわじわと自分に染み込んでくる転換点になった。
これだけははっきり言いたいのですが、私はソフトウェア産業に関わったことを後悔したことは微塵もないです。SさんとKさんには今でも、どれだけ感謝を伝えてもおそらく感謝しきることはできないほどに感謝しています。あのときのたった数時間のランチでのKさんの言葉や姿が、振り返ってみれば私にとって人生の指針となっていたのです。
ただそういう大きな転換点での影響っていうのは経験上すぐに自らの表層に現れることはなく、おそらく認知できないどこかで自分の深いところで咀嚼されてでてくるものだと思っている。
次の転換点を同じ高校1年生の秋に迎えることになる。当時、埼玉県を出て、初めて家族なしで1人で東京を探検できることに嬉しさを覚えていた私は、東京のいろんなところを回っていた。そのうちの1つで出会ったのがYさんの作品だった。目立つような作品ではまったくなかったが、今振り返るとデザインとエンジニアリングが非常に高いレベルで、もはや融合とかではなく、最初から境界なんかないということを思い知らされる作品であった。
それ以降、「作品」というものに強い興味の出た私は、ちょうど高校の文化祭という機会をもらったので、なにかを表現しようと作品を展示することにするが、どうにもうまくいかない。私には表現の核がない。結局Yさんの真似をするしか道がなく、なんとも曖昧なまま終わり、とても消化不良で終わった記憶である。これが2015年、私が高校2年生の6月であった。
この前後からYさんと話すようになり、私のエンジニアリングとデザインの基礎は思えばここで得た感覚値・価値観で、今も、おそらく今後もずっと、それで私は生きている。小手先の技術はいくらでも後付けできるけど、その根底にある感覚値や価値観はなかなかそう安々と獲得できるものではない。私が今大事に思っていることの殆どは、もともとはYさんが大事にしていたことだと思う。私はほとんど私の中にいないんじゃないかな。
さて、高校1年生から2年生へ進級するタイミングで、理系か文系かを選ぶ必要があった。方面としては理系だろうが、いろいろな世界を見てみたくて文系を選んだ。
このあたりから人生が吹っ飛び始めた。徐々にプロダクト開発の仕事やQueensyaといった趣味活動をはじめ、デザインやエンジニアリングを行ったり来たりする生活が始まる。それと同時に、睡眠時間を削ってものづくりをするようになり、高校まで駅から2kmほど一本道の桜並木が続くのだが、よくここを文字通り寝ながら歩いていた。
寝ながら歩くほど眠い、というのは本当に不健康である。この不健康というのはもちろん自分にとっても、だが、社会として見ても、である。高校時代に歩きながら寝ないと25才でオンスクリーンプロダクトデザイナーになれないのだとしたら、それはきっと何かがおかしい気がしてしまう。
繰り返しますが、私は私に向けてこれを書いている、という前提で読んでください。このような動き方は絶対に人に求めてはいけないことです。そもそも私は他人に求めることと自分に求めることの裏にある考え方が真逆で、他人は信頼して期待せず、自分は信頼せずに期待するように努める、という前提があります。
しかしながら、私はもしあの不健康さがなかったら、今ここでこんな文章を書いていることはないと思っている。とても難しいことに、私はあの動き方の中で自分が今の小手先の技術や思想を手に入れられたと信じてしまっていて、こんな悪習は消えてしかるべきだと思っている一方で、あれなしでどうすれば今の自分を再現できるか (再現すべきだとは1mmも思わないが) よくわからない。これは私の課題だと思う。私は、これ以外でデザインとエンジニアリングの両者に触れる道がわからないのだ。
高校時代にやったこと、ここで得た経験はここには書ききれないほどある。本当にいろいろなことを経験させてもらった。
ここで学業に視点を戻すと、私は到底大学に行けるようなレベルですらなくなっていたので、実は真面目に高校を出て働こうと思っていた時期もある。当時は運や人ではなく自分の実力だと信じきれる傲慢さを持ち合わせていたし、ありがたいことに色々な経験をさせてもらったのもあり (というか悲しい話、持っている技術とかは私は実は高校時代と今でおそらく大して変わってない) 、仕事のほうが面白いし、もういいや、と思っていた部分もある。
そんなとき私が聞かれたのが、「経験と知識、どっちが大切だと思うか?」という質問だった。当時の私は事実圧倒的に経験だと思っていたし、そもぞ知識は経験から得ることができると思っていた。だから「どちらかだけと考えるな、どちらも大切なんだ」と教わったときにそういうように考えることが少し不思議だった。題は違えど同じような事が何度もあった。
その答えの1つは筑波大学にあるらしいから、私は筑波大学を目指した。理由は情報学類が第三エリアにあるから。理由を単純化して平易な言葉で語ればつまるところリベラルアーツという話でもあるので、ICUも目指すことにした。だけどことはそううまくはいかない。
そのうちに高校3年生の秋になり、私はいろんなことをうまく回せなくなってしまった。Yさんと目指した世界にこの道ではつながらなくなってしまったと思い込んだ私は、私と世界に絶望してしまった。
そして当然受験もうまくいかず、いわゆる浪人生、という枠組みになった。1年間勉強したが、それでも筑波にはいけず、結果ICUに入学することになる。2018年4月のことである。
ICUでは色々な経験を積んだ。中でもいちばん私に影響があったのはFR0M SCRATCH、現FR0SCという活動だ。
鶏塩ラーメンを0から作る、というバカみたいな冗談から始まったプロジェクトで、畑を耕し小麦を育て、有精卵から鶏を育て、利尻島で昆布を採ってきたり、広島で藻塩を作ったりと、マジで0からラーメンを作る活動だ。これで複雑性や価値、といったものとの対峙があった。
大学の間、私のテーマは「複雑なことを複雑なまま理解する」であった。それより前は「違和感への気付き」「言語化」「感情と論理の一致」であった。そこへ大きく近づくことになった。FR0SCを通して、私はデザインという行為について、わかりにくいものをわかりやすくすること自体に功罪があるような感覚がなんとなくある。
大学2年の終わり、2020年の1月くらい、ちょうどコロナが騒がれる少し前にいろいろあってそれまで関わりのあった仕事をすべて終わらせた。FR0SCでの活動もあるし、いろいろな過去の清算が必要だった。
そのあと2020年3月にたまたま参加したのがT社であった。結果、私はここに2024年3月まで在籍し、ここでデザインとエンジニアリングの統合の形を模索することになる。正直そこまでなることは一切予感していなかった。たまたま、偶然である。
そこまで、私自身はデザインとエンジニアリングを分けてやっていたような気がする。ここで初めてきちんと統合を果たすことができた。
そして大学から大学院と、Goの並行処理を静的解析で安全にする研究をしていた。実はこれの先には私が正解だと信じている世界の形がある。でもそれは正解だと信じているだけで、正しいかどうかはまだよくわかっていない。ので詳しいことは今は話さない。
そして2024年3月、大学院を退学するが、この理由の1つとして研究が今の興味範囲 (デザインとエンジニアリングの溝を埋めること) から離れてしまったことがあるが、大きな目で見れば、私が正解だと信じている世界の形へと通じていることにはどちらも変わりがない。より遠回りの道を選択し直しただけで、どちらも同じところに通じているので私の中ではやっていることに違いがない。
今、私はチームとしての最大化や属人性への戦いに興味がある。しかし今後おそらく5年ぐらいかけて、民藝的なものづくりとの対峙が私には来ると思っている。そしてその先には私はソフトウェア産業業界からは離れたい、と思っているはずだ。これは私が正解だと信じている世界の形へと近づくためでもある。
私の人生の指針にクルミドコーヒーというカフェの店主影山さんが書いた「ゆっくりいそげ」がある。これが私が正解だと信じている世界の形と今の形をつなぐ接着剤になると思っている。
現在は、つまるところ、私は私が正解だと信じている世界の形を目指すため、必要なピースを遠回りしながら集めている。路線変更によりプロダクトデザイン領域である程度知名度が必要だったり、いろんな人のn=1の話を聞くために無茶苦茶にイベントに参加しまくったりしていた。そして、結果的に1番今私が必要なピースに近いS社に2024年4月から入社して活動することになる。